(リ)コンディショニングメモ

主にトレーニング、理学療法、リハビリテーションに関することについて。理学療法士が管理しています。

勉強関連 考え方

良いものを広めるためにセミナーをするという考え方について

はじめに

「他人の役に立ちたい」「他人から認められたい」という欲求は、多くの人にあるものだと思います。他人の身体に関わる専門職として、対象者から「あなた役立たずね」「代わりの人がいい」と言われることを想像すると、気持ちの良いものではないと思います。

それで気持ち良くなる性質の人はいるかも知れませんが、それが気持ち良いのであれば、「他人の役に立ちたい」という欲求はそもそもないのかも知れません。

自分と周りが良ければそれで良い

他人の役に立つことと自己満足

言葉遊びとして、「他人の役に立ちたい」というのも「自己満足」であるが、「自己満足」のために「他人の役に立ちたい」というのであれば、それで良いという表現もあります。

「自分と周りが良ければそれで良い」という考えをある方が仰っていましたが、個人的な解釈では、そもそも自分に出来る範囲はそれくらいであろうし、いくら努力してもその範囲を良く出来るかと言うと、それもまた難しいと思います。

「自分と周りが良ければそれで良い」という考えを皆が持っていれば、大部分を補完出来るという観方もありますが、オーバーラップする部分、「良いとは人それぞれ」とか考えると、そこまで単純な話ではないのかも知れませんが、出来ることは限られているので、限られた時間と労力をどこに費やすのかということは、大事なことです。

「より多くの人の役に立ちたい」

「より多くの人に良い影響を与えたい」という欲求と言いますか志は、否定されるものではありませんし、そういう気概で何かに取り組むことで生まれるものがあると思います。

「良い」は人によって・ケースによって違う

一方で、「良い影響」の「良い」は人によって違うし、ある人にとっては「良い」が、ある人にとっては「悪い」かも知れません。臨床的には効果のあるケースもあれば、効果がないもしくは悪い影響があるケースもあります。

「良いものを広めたい」と言っても、ある程度普遍性があるものなのか、トンデモなものなのか、色々あります。また良い悪いという価値観ではかれませんが、(一部の)宗教も対立があったりと似たような側面があります。

「自分と周りが良ければそれで良い」というのは、そういった個別性を配慮することが(まだ)出来る、実際に関わることが出来るので臨機応変に対応出来ます(表現が大げさですが関わり合いが持てるということです)。

家族とボランティア活動

例えば家族を残してボランティア活動に勤しむというのは、家族の理解や協力があってこそだと思いますが、家族がそれによって苦労や我慢を強いられるのであれば、本当に大事なこと、より大切なことは、家族よりもボランティア活動を通じて得るものなのかということになります。

もちろん、ボランティア活動によって助かる人もいますし、そういった精神や行動は尊いものだと思います。なので普遍的な優先順位の話ではありません。例えば、災害時のボランティアは、家族の安全が確保されているのであれば、協力するということもあります。

それを仕事としている方々は、その使命感で活動されますし、ケースバイケースと言ってしまえばそれまでですが。

セミナーという手段

臨床は関わる人数が限られている

日々臨床で患者さんを担当しますが、1日あたり担当する人数は限られていますし、可能な取得単位の上限もあります。ですから、観方によっては役に立てる可能性のある人数には限りがあります。

しかし、本当に患者さんの役に立てているのかという視点はありますが、患者さんと関わる人にも影響を与えられることもあると思います。

ポジティブな例で言うと、患者さんが元気になれば、家族が喜んだり、仕事に復帰するといったことです。アスリートであれば、復帰して活躍すれば多くのファンを楽しませるといったことです。

専門職を対象にする

より多くの人達の役に立ちたいと考えるとして、自身の何かが臨床に役立つであろうと思うものがあるならば、所属する組織で同僚と勉強会をしたり、それを伝える機会としてセミナーなどを考えるかも知れません。

実際、個人的にも色々なセミナーに参加してきましたし、色々なヒントを多く得たと感じています。ですから、セミナーを開催すること自体を批判するつもりは全くありません。

もちろん内容による

ただ、「良いものを広めたい」といった、「良いもの」という前提で一方的に提供し、応用が利かないもの、参加者の疑問に理論的に答えられないもの、丸々パクリなのに自分のものとしている、トンデモなもの(これは論外)であるならば、それはどうなのかなと思います。

具体例に対する回答について

実際はひとつとして同じ症例はないわけですから、ケースバイケースなわけです。しかしながらそれでも何か普遍的なものがあるはずですし、特に臨床経験を積み重ねていくことで、それらが少しずつ観えてくるのかも知れません。

そうすると、参加者もそれぞれ能力(単純に上下や良し悪しで測れませんが)が違うわけなので、「こういうケースはどうなんですか?」といったように、より具体的な質問が出てくるのは自然なことです。

「良いもの」という前提だと建設的な話にはならない

それを、「これは良いものだ」という前提があるのであれば、講師は辻褄を合わせるような話しか出来ないでしょうし、そうなると参加者の役に立つのかと言えば、「このセミナーはもう受けないな」という学習くらいかも知れません。

だとすれば、「より多くの人達の役に立ちたい」という志とは裏腹な結果になります。もちろん全ての参加者に満足して帰ってもらうことは困難ですが、実際の臨床を考えると一方的に提供する形は無理があります。

「より多くの人達の役に立ちたい」という理由でセミナーを開催し、その質を高めたいということであれば、自身の能力もさることながら、一方的な提供ではなく、参加者と適宜やりとりをしながら、講師にも参加者にも参考になるようなものが生まれる形も良いように思います。

師弟関係ではない

講師が全てにおいて参加者の能力を上回っていることなんて殆どないでしょうから、それを前提として、しかしそのテーマにおいては講師がひとつ抜け出ているという形が自然なのかなと感じます。

テーマについて少なくとも参加者の数だけ視点や考え方があるはずなので、それを共有すること、そして新たなアイデアが生まれるといったことになれば、講師も参加者も双方にとって有意義でしょうし、そういったコーディネーター的な役割を講師が担えるかどうかは大きいと思います。

いわゆる「世に問う」ということで、ここでの「世」は「参加者」ということになりますが、一方的な押し付けになるか、「問う」のかでは、違いがあります。

自立した専門職同士、ただその時の立場が違うだけで、上下関係ではないはずです。上か下かに限らず上下関係を望む人もいますし、それはそれで相性が良いのかも知れませんが。

一部を肯定・尊敬されたとしても人間性全体の話ではない

臨床能力が高いといった評価はあくまで臨床能力の話であって、その人全体の話ではありません。もちろん、臨床能力と人柄を切り分けることは困難ですが、同一視することは危険だと思います。

ある方が仰っていたのは、一部を肯定・尊敬されたことを、自分自身が認められた、それが飛躍して好意を持たれていると勘違いすると、パワハラやセクハラに繋がる可能性があるとのことでした。

尊敬しているのに意見が違うなんておかしいとか、尊敬しているなら協力しろとか、尊敬しているなら誘いを断らないよな…など、勘違いをしてしまう危険性があります。

尊敬とは言わないまでも、意見や考え方が同じ人で囲って排他的になることがあります。周りは違う意見や考えを述べず賛同するので、気持ち良いのかも知れません。

それはそれで否定するつもりはないですが、絶対的に正しく良いものという前提でなければ、新しく良いものが生まれにくいと思います。そして、自分達以外は間違っているという認識になると、攻撃性を増すかも知れません。

最後に

どのような考え方が良い悪いという話ではありません。それぞれの立場で出来ることをするということだと考えています。「他人の役に立ちたい」という志が例え自己満足だという意見があろうと、そういう言葉遊び自体は重要ではないと思います。

「自分と自分の周りが良ければそれで良い」という考えは、利己的に捉えられるかも知れませんが、それを実践することは容易ではないですし、それが実践出来ないのにより広く多くの人の役に立てるかという視点もあります。

まあ少なくとも、「他人の役に立ちたい」が承認欲求の肥大となり、排他的、攻撃的になるのであれば、それは本末転倒なように感じます。

【参考記事】

-勉強関連, 考え方