(リ)コンディショニングメモ

主にトレーニング、理学療法、リハビリテーションに関することについて。理学療法士が管理しています。

指導関連 考え方

教育・部活動・スポーツと体罰について

2018/08/22

文部科学省の通知

文部科学省から平成25年3月13日に、「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について」という通知がありました。

  1. 体罰の禁止及び懲戒について
  2. 懲戒と体罰の区別について
  3. 正当防衛及び正当行為について
  4. 体罰の防止と組織的な指導体制について
  5. 部活動指導について

詳しくはリンク先をご確認下さい。一個人の考えを述べることは大切だと思いますが、こういった公的な機関からの通知の内容などは確認しておく必要があると考えています。

結果的にはどちらも体罰?

体罰を手段と考えるのか否か

「言うことを聞かないから体罰を与える」ということと、「咄嗟に手をあげてしまった」では、結果的には同じ体罰と取り上げられたとしても、全てが同じとは言えないケースもある思います。

前者は、体罰によって思考や行動をコントロールしようとする意図があり、後者は何かしらの誘引があり、冷静な判断に欠けた行動と言えるかも知れません。

後者に関して、具体的な事例を挙げます。ある生徒が他の生徒に対して、著しく倫理的に問題のある発言を浴びせ、それを聞いていた教師がつい手をあげてしまったというケースです。発言を浴びた生徒の精神的な苦痛を想像し、教師が感情的になり、つい手をあげたということです。

背景と解決策を考えることも大事

こういうケースだと、手をあげることに正当な理由があると言いたいわけではありません。倫理的に問題のある発言に怒りを覚えた、発言を受けた生徒を傷付けたくないという想いと、発言した生徒に手をあげることは別であるという視点も必要だと思います。

しかしだからと言って、個人的には、この教師の行動に対して、「体罰を与えた許せない教師だ」とは思いません。

結果的に体罰となった行動自体は肯定しませんが、その誘引についても考える必要があると思いますし、こういうケースではどうするのが良いのか、こういうケースを防ぐためにはどうするのが良いのか、そういったことについて考える必要があると思います。

「体罰」という言葉

躾、教育的指導、愛のムチ…時に便宜的に、文脈的に様々な言葉を置き換えたものとして、体罰という言葉が使用されることがあるようです。

しかしながら時に、暴行、虐待といった言葉の方が文脈に合うようなケースもあるように思います。ですから、体罰の問題を語る時に、体罰という言葉が独り歩きして、「体罰はあかん」「必要な体罰もある」という対立構造になるのであれば、あまり建設的ではないように感じます。

ダメなものはダメで終了?

理解と行動が伴わないこともある

「体罰は許されない。だから体罰を行った教師は許せない。」という考えも当然あると思いますが、それで体罰がなくなれば良いのですが、頭では確かにダメなことと認識していれば、必ずそれをしないのかと言えば、そうとは言えないことは体罰に限らずあるはずです。

人のふり見て我がふり直せ

様々なニュースを観て、「そんなアホなこと私はしない」と考えるのか、その背景を色々想像して「私も気をつけよう」と考えるのかでは、今後の行動が変わるかも知れません。

交通事故にしても、「安全運転しないから悪い」と考えるのか、「私も気をつけよう」と考えるのかでは、これからの運転が違うかも知れません。飲酒運転とか意図的な危険運転などであれば、後者のような感想にならない人も多いかも知れませんが。

臨床で考えると、様々なインシデントいわゆるヒヤリハットやアクシデントの報告に対しての感想が、「そんなアホなこと私はしない」と「私も気をつけよう」だと、前者の方がやらかしそうな気がします。

必要な体罰があるとは言えない

取り返しがつかないこともある

体罰の話は昔から議論されてきたことであり、一言で言えることではありません。ですから、この記事で何かしらの結論を出すことも困難です。

ただ、どんな理由であれ体罰は受けた側は、長くに渡り心身に影響が残る可能性があります。場合によっては死に繋がる可能性もあります。こういった理由もあり、体罰自体に対しては否定的な意見です。

個人の経験で全てを語ることは出来ない

思い返せば、中学生の頃まではいわゆる体罰を受けた経験がありますが、「まあ俺が悪かったわな」と思っていましたし、当時はそれをネタに話をしていたわけですが、これはあくまでも個人的な経験であり、「だから必要な体罰もある」とは思っていません。

朝礼に遅れたらグラウンドを走る、忘れ物をしたらケツを叩かれる、そういった類のペナルティー、体罰を、「うわー最悪やー」と言いながら半分笑いに変える人もいれば、心身ともに苦痛を伴う人もいると思います。

「私も経験したが、それはそれで良かった」という個人的な感想は誰も否定出来ませんが、「だから必要な体罰もある」というのは、話が飛躍しています。その体罰によっては、取り返しのつかない事態を招く可能性があるという想像力は必要だと思います。

指導能力と体罰

指導能力の問題?

体罰によって、モチベーションが上がる、パフォーマンスが向上するわけでもなく、ただ恐怖を与える、絶対的な主従関係を構築するということになれば、ポジティブな要素が殆ど見当たりません。

上手く出来ないことを出来るように導ける指導力がないのに、気合いが足りない、やる気がないとして体罰を与えるとすれば、もはや指導者の素質は皆無と言えそうです。

これで強くなるなら、脱落した人はいなかったことになって、そういった環境で続けることの出来た才能のある人が残ったということかも知れません。しかし離れていった人の中にも、才能ある人も当然いたはずです。

ただ、高い指導能力を有しているからといって、体罰をしないかと言えばそうとは言えませんし、指導能力が高くないからといっても、体罰をするかと言えばそうとは言えません。

感情のコントロールをすべき?

例えば腹を立てる原因が、自分自身の不甲斐なさや、認められていないという認識、対象者の態度が倫理的に考えて容認が難しいといったように、色々あるはずです。

「教育者だから」「プロだから」という理由で、感情のコントロールは当たり前、高い指導力は当たり前、失敗は許されない、そういった「かくあるべき」というものだけで否定したところで、何が解決するのかと思います。

「教師は聖職者たるべき」といった言葉を使って、批判することも同様です。「私は違うけど、あなたはそうあるべきですよね」というスタンスは、個人的には違和感が強いです。

いつでも穏やかに、高い能力を有し、失敗しない、そうあることが出来るのであれば、そうしたいと考える人が殆どだと思います。

「したくて、そうしたわけじゃない」「ありたい自分との乖離のある行動」、そういったものに対して、他者からの「それはダメだ」だけでは解決に向かわないように思います。

最後に

良い悪い、必要不必要、正しい間違っている、そういった二元論的な議論だけがなされても、結局は個々のポリシーレベルの話に終始して、議論は平行線になるだけかも知れません。

例え、自分自身と違っても、他者の考え方を知ろうとする、立場を想像してみる、そういった作業が必要だと考えています。

「かくあるべき」だから「こうしろ」「これをするな」ではなく、問題は何か、どうすればより良い方向に向かうのか、そういった視点が不可欠だと思います。

-指導関連, 考え方